「めんどくさい」と言う違和感は、実は解決の糸口かもしれない
「めんどくさい」を研究することで、「めんどくさい」ことを解決し、我々のメリットにできるのではないかと思います。
時代や環境が変化して、陳腐化したルールを守っていることがある。
先人や偉人の言葉には重みがあって、時代の流れに影響しない伝統や個人の精神的なことは、後世に受け継がれて行くように思います。
ですが、現代では無効な習慣は、創業20年ほど経過した会社では、現在でも脈々と残っているのではないでしょうか?
一度決まったルールはなかなか撤廃できないのが人の性(さが)のようです。
特に人畜無害で、手間もかからずに誰にも害を与えないルールは余計に残りやすいのだと考えます。
でも、よく考えたら、改善できるルールや撤廃できるルールなんていっぱいあると思います。
あってもなくても良いルールならば、自分は無い方が健全ではないかと考えます。
そのルールがあるために、無駄なことをしなければならないことが多々あるからです。
普通では気がつかない無用の長物を「めんどくさい」と感じることで、発見できて、それらのルールの見直しに貢献できるのかもしれません。
大雨が降って、裏山の土砂が崩れた、川の堤防が決壊した、60年生きてきたが初めての経験です!
毎年のように雨の災害は、日本の各地で起きています。
地球のダイナミズムを考えると、山の風景を一つをとっても、斜面はえぐられ深い谷となり、何万年と水は流れているのだから、土砂崩れや川の氾濫は、起こって当然と考えた方が、正常な考えだと思います。
日本は、気象観測を1883年(明治16年)から始めたと言われています。
まだ、百数十年の観測データーしかないのが現状です。
地球の歴史から考えると、ほんの一瞬のデーターしかないわけですから、観測史上初というデーターは、当然のことであって、別に驚く必要はないのではないかと思います。
突っ込みどころは、そこではなく、ここ数年のデーターをみて、どのように考えるかだと思います。
最近のゲリラ豪雨や夏の気温の高さは、異常だろうか、とすると原因は?
気温の上昇に寄与している因子は、温室効果ガスだとすると、つまり、二酸化炭素が多くなると地球の平均温度が上昇するようです。
何で二酸化炭素が多くなったのか?
二酸化炭素は水に溶けやすいので、雨が降れば、海の水に溶け込むのではないか、
これまでは、海に取り込まれていた二酸化炭素ですが、溶け込める量の限界なのか、
海の中の珪藻類が二酸化炭素を吸収して酸素を放出していると言われている、
ここで、私の頭の中が、「めんどくさい」でいっぱいになってしまいました。
結論から言うと、この洪水や河川の氾濫、土砂崩れの原因は、大量の雨ですが、その雨は、温室効果ガスによる気温の上昇だとすると、二酸化炭素は誰が作っているの?
我々人間が、エネルギーを作るために燃料を燃やして作っているのです。
結局、人間が、無限の欲望のままに、好き勝手した結果が、この異常気象につながっているのだろうと、誰もが想像しています。
じゃ、地球環境のために電気を使わない生活をしましょう
原始時代に戻れば、少しの薪さえあればエネルギーは確保できますが、みなさん、節約して、1日薪一本で過ごしましょう。
でも、原子力発電を認めれば、今まで通りの生活ができますが、大震災で放射能まみれになりますが、いいですか?
究極の選択かと思うかもしれませんが、
実際には、石油や石炭を燃焼させることによって受ける地球環境への影響は、原子力に比べると遥かに大きいことは、有識者ならば皆さん知っていることですよ。
「めんどくさい」を利点にしよう
現在、国民が代表を選ぶ間接民主制ですが、どこか焦点がずれてきている感じがあります。
人々の意識が、国民を守るから、個人の欲求を守ることが第一になっているように感じてなりません。(ポピュリズムか?)
だから、今の国会の討論を見ても、やることすること決めること、自分には「めんどくさい」と感じてしまうのかもしれません。
国民も、自分だけが良ければ、安定していれば、今まで通りの生活ができればいい。(自分もそんなところはあるけれど)
今の日本の政治経済は、これで良いのだろうか?
そして、次世代の子供たちに、こんな日本を愛してもらえるのだろうか?
前の世代の人たちが、欲望の限りをつくし、借金まみれで、ボロボロにした日本(すいません、自分にはこのように見えます。)
まあ、借金はデノミをすれば解消できるけどね。(経済的な痛手は大きいですが)
この、「めんどくさい」感じを大切にすれば、そして、解消できれば、少しは良い方に進歩できるのだろうと思います。
現在の日本は時代の変化に対応できているのか?
新たなベンチャーは、若い人たちが牽引していて、よくなっているとは感じていますが、
大企業は、若者を経営側にどんどん登用して、今後の時代を作っていく必要があるし、
政治も、どんどん若返って、新しいことにチャレンジするところに来ていると思います。
喧々諤々(けんけんがくがく)の討論は、民主政治には必要なことと言われていますが、国会の討論を見る限り、単なるねじれた感情のぶつかり合いであって、討論にはなっていないことが多いと感じます。(そんなには見ていませんが)
さまざまな断には、感情を伴いますが、歪んだ感情で判断決定されることが、最も「めんどくさい」と感じてしまいます。
「めんどくさい」と感じるのは、特に歪んだ感情で判断や決定がなされた事かかもしれません。
しかし、この「めんどくさい」感覚の裏を返せば、みんなが納得できる変化や決定がなされるように思います。
そして、みんなの人生を面白いくて楽しいものにできる可能性を秘めています。(ホントかな??)
※この文章はjuly-2020に書きました。POP KARAIE 唐家克也