自由はめんどくさい・不自由は安心

自由とは、とても「めんどくさい」ことを、みなさん知っていますか?

自由は「めんどくさい」?
そんなことはないと、思っているかもしれませんが……


自由な人間のイメージ

本当に自由な状態を自分の中でイメージすると、周りに誰もおらず、食べ物も、水もない砂漠の中にポツンと一人で立っている様子が浮かびます。

その状態が、本当の自由な空間、究極的には宇宙空間かもしれませんが、人間は生きることができないので、地球上の中では、誰もいない砂漠のイメージですね。

現在の社会では、周りに、衣食住となるものがたくさん用意されているので、砂漠のイメージだとちょっと違うかなと思いますが。

人間との接触、干渉のない空間が自由と考えるのですが、それでは生きていくことができないので、自分自身が他者からの干渉を上手に制御できることが現代社会の自由ということになると思います。

現代社会の自由のイメージは、あらかじめ自分の周りには道路が存在している状態、社会システム、国憲法や法律などによって、自分の周りにいろんな方向に道路が四方八方に伸びているイメージで、その道路から脇道がでている様子です。(まるでローマの中心か?)

どちらの道路に行くのか、その選択肢が自分にたくさんあって、他者からの干渉がない状態が現代の最大限の自由ということになると考えます。

自由とは選択肢がいっぱいある状態


不自由のイメージは

不自由にはさまざまなイメージがありますが、誰かが決めた一本道を歩いている様な感じがあります。
この場合は、左右の分岐点には通行止めの標識があって、進む道は決定されています。

歩む道が一本なので、早くに高いところに到達できるイメージが湧きます。
このイメージに該当するのは、親に言われて東大に入れた人、親から言われてオリンピック選手で活躍している人、2世と言われる人たちに多い様に思いますが、こんな不自由ならば、自分も経験したいくらいです。

しかし、うまくの道路を進めた人は、努力の分だけ承認欲求が満たされて、良いのかもしれませんが、ここから落ちこぼれた人たちも沢山いるのではないかと思います。

行く道は、大きくて広いのですが、急な登り坂で登れない場合は、どうですか?
隣の細い道は、通行止めになっています。

自由ならば、通れるところも、不自由ならば通れないのです。
我々は、いろんな選択肢が与えられるのですが、他者からの制約の中で不自由を選んでいることもあるのです。
不自由を選択することで、他人の責任にすることは可能ですが。

不自由は選択肢がなく責任は他人任せ


では何で、自由がめんどくさいのか、

それは、選択肢の多さがそのように感じるのだと思います。
子供の時から、我々は大人の干渉を受けて、現代を生きるための情報を教育という形でインプットされてきました。

さらに、大人たちの習慣や伝統、さらに個人の経験、体験したことなど、実際に生きていくためには不必要なものまで洗脳という形で、取り入れてきました。

さまざまな洗脳は、自分が自由に選択して道を選ぶための道路に通行止めの看板が置かれていく状態に似ています。

通行止めの場合、我々は、遠回りして、他の道路を探さなければなりません。
結局、袋小路に入ったり、思っていなかったところに出たり、たまたま、もっといいところに行き着いたり、
人生なんて、何が起こるがわからない世界ですが、道路を選択するのは自分です。

通行止めの看板があっても、その先を見たくて行く人はたくさんいるのも事実です。
たくさんの人の経験値で、この道はダメだという通行止めを避ければ、目的地まで行ける可能性もあるし、通行止めでもないのに、環境の変化で崖崩れになって、通れないこともあるでしょう。

実は、制限された方が、選択肢は少ないので目的地には正確に早く行ける可能性があるということです。
そのための、教育や洗脳であると考えます。

制限されず、自由は、試行錯誤の連続のような状態です。
能力が高ければ高いほど、目的地に達する可能性は高いですが、低ければ、途中で止まる可能性も高いということです。
だから、自由は「めんどくさい」のかもしれません。


教育や洗脳とは、

教育や洗脳とは、その時代に生きた人の行き先の、道案内であったり、その道路を通った人の経験だったり、過去の人たちが考えたルールであったり、考え方であったりすると思いますが、それを信じるも信じないのも自分自身です。(歪んだ感情で無理やり曲げられた道路もあります)

実際に試して経験してみることも、現代に生きる人には必要なのことかもしれません。(環境の変化で違う結果が出るかもしれません)
ただ、人間社会で他者の感情と干渉し合うようなことは、試してはいけないと思います。(人間本来のルール、殺人、詐欺など)

言い方が周りくどいですが、要するに、自分も相手も感情的になること、そのようなことにならないようにルールや規則、法律が定められているのですが。

意味の不明なルールもたくさあるかもしれませんが、人間が感情的にならないための最低限のルールは決して破ってはいけないと考えます。
ルールは基本的に必要から生まれたものなので、守るのが良いと思います。


現代の自由を考えてみると

まずは、選択する項目を調べて、次に自分の適性や好みや将来性などを考えて、どれか一つの道に乗ります。
最初の一歩は、少しワクワクするのですが、選択肢が多すぎても、無くても、人間は先には進めなくなります。

選択肢が多い時には、試行錯誤、トライアンドエラーか、他人の経験則を採用するか、でも、少し行って、違うなと思ったらいったん戻ることも考えておかなければなりません。

そのための「めんどくさい」という感覚が必要です。
選択肢を見つけられない場合は、少し戻って、選択肢を最初から探すのが良いだろうと思います。

失敗してやり直すことは、決して悪いことではないと思います。
やり直せるくらいの失敗を経験することが、今後の人生の肥やしになりますから。

現代の自由には、ある程度、試行錯誤できる環境にあると思います。
(能力が低い私のような人間が試行錯誤を少なくするには、先人の本や情報を参考にしましょう。)


不自由になるには、どうすればなれるの?

社会には個人が得をするルール、既得権というものも存在します。
例えば、医師免許や弁護士免許のように、特別の権利は免許がないとできないことになっていたりします。

他にもたくさんあると思いますが、
ルールがわずわらしくないのであれば、既得権を獲得する方法もありますが、そのような集団に入ることが、自分にはめんどくさそうで入りたくないですね。

不自由は、安心できる決まった道です。
学校で優等生だった人には、とても良い選択肢かもしれません。

さらに、自分で自分を鎖のようにつなぎ止めれば不自由は完成します。
そして、同じ場所から動かなければ、不安は少ないしね。(でも、不満だらけになるかもしれません)


自由とは、全責任は自分自身にあることを理解する必要がある

結局、自由は、自分で道を選択し、なければ道を作って、突き進む、とてもめんどくさい人生でした。
でも、立ち止まるまでは、何が起こるか誰にもわからない、冒険みたいな人生です。

自由を突き進めるのは、一部のポジティブ思考の人だけで、多くの人には不安という見えない力に押し戻されるだろうと思います。

そして、リスクを不安と思わない、反対にチャンスだと考えることができる人が自由になれるのだと思います。

自由は「めんどくさい」けど冒険みたいな生き方で面白いですね。
変わることの不安(自由)、変わらないことの不満(不自由)と考えると納得できるかな!

自由

※この文章はjune-2020に書きました。POP KARAIE 唐家克也

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